02■高尾太夫墓(たかおだゆうはか)

東浅草二丁目十四番一号 春慶院

 江戸市街の整備と治安風致対策をたてた幕府は、明暦三年(一六五七)この年の正月にあった「明暦の大火」の後に、日本橋の吉原遊廓を浅草日本堤下に移転させた。いわゆる新吉原の誕生である。泰平の世相に伴い、新吉原は繁盛した。高尾太夫は吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は十一人いたともいわれるが、いずれも三浦屋四郎左衛門方の抱え遊女であった。この墓は、世に万治高尾、あるいは仙台高尾と謳われ、幾多の伝説巷談を生んだ二代目高尾太夫の墓という。細部にまで意匠を凝らした笠石塔婆で、戦災で亀裂が入り、一隅が欠けている。高さ約一・五メートル、正面に紅葉(カエデ)文様を現わし、中央から下に楷書で「為転誉妙身信女」その下に「万治二年己亥」、左側に「十二月五日」と戒名・忌日が刻まれている。右面に遺詠、「寒風にもろくもくつる紅葉かな」 と刻む。
 巷説に、仙台の大名、のちに伊達騒動の悲劇の主人公になった伊達綱宗とのロマンスがあり、高尾の綱宗に宛てた手紙の一節「忘れねばこそ、おもい出さず候」、「君はいま駒形あたりほととぎす」の句が伝えられている。この墓は仙台侯の内命によって建てられたといわれる。

注記
 万治高尾の墓は、江戸時代から通称「土手の道哲」といわれていた西方寺(豊島区西巣鴨四丁目八番四十三号)にもある。墓石中央に地蔵像を浮き彫りにし、右に「轉誉妙身信女万治三年十二月二十五廿五日」左に「完封にもろくもくつる紅葉かな」とある。震災で戒名の一部と辞世の句の一部を損傷している。なお、西方寺は大正十五年一月二日浅草(旧浅草聖天町)より現在地に移転した。