08■伊東玄朴居宅跡(種痘所跡)(いとうげんぼくきょたくあと・しゅとうじょあと)
台東区台東一丁目三十番付近

 この辺りに、蘭方医伊東玄朴の居宅兼家塾「象先堂」があった。伊東玄朴は、寛政十二年(一八〇〇)肥前国仁比山村(現、佐賀県神埼郡神埼町)で農民の子として生まれた。後佐賀藩医の養子となり、長崎でドイツ人医師フランツ・フォン・シーボルトらに蘭学を学び、その後江戸に出て、天保四年(一八三三)に当地に居を構えた。安政五年(一八五八)には、将軍家定の侍医も務め、その名声は高まり門人が列をなした。
 玄朴はまた、江戸においてはじめて種痘法を開始した人物である。種痘とは、一九八〇年に世界保健機構(WHO)より撲滅宣言された天然痘に対する予防法。一七九六年、イギリス人エドワード・ジェンナーが発明し、天然痘によって多くの人間が命を落としていたため、種痘法は西洋医学をわが国で受け入れる決定的な要因となっ
た。嘉永二年(一八四九)、長崎でドイツ人のオランダ商館医オットー・モーニケが、佐賀藩塾医楢林宗建の子供に接種したのがわが国における種痘成功の最初である。
 江戸では、安政四年(一八五七)、神田お玉が池(現、千代田区岩本町)に玄朴ら八十余名が金銭を供出して種痘所設立を図り、翌年竣工した。種痘所は、この翌年火災により焼失してしまったため、下谷和泉橋通の仮施設に移り、翌万延元年(一八六〇)再建された。同年には幕府直轄の公認機関となり、この後「西洋医学所」「医学所」「医学校」「大学東校」という変遷をたどり、現在の東京大学医学部の前身となった。幕府の機関となった種痘所の位置は、伊東玄朴宅のすぐ南側、現
在の台東一丁目三十番地の南側半分、同二十八番地の全域に相当する。なお、台東区谷中四丁目四番地の天龍院門前には伊東玄朴の墓(都指定旧跡) についての説明板が建っています。