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上野桜木・谷中を歩く

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浅尾空人さんに聞く
浅尾空人さんに聞く

掲載:2012年2月6日

上野桜木・谷中は文人、画家の町です。
上野桜木の桜並木

上野桜木の桜並木

台東区は、昭和22年(1947)、旧東京市の下谷区と浅草区が合併して誕生しました。上野桜木、谷中は、古くから東叡山寛永寺の敷地にあり、寛永寺の子院が多く点在する寺町でしたが、慶応4年(1868)の彰義隊と新政府軍による上野戦争の際に、寛永寺の伽藍を初めとして多くは焼失してしまいました。その後、明治6年(1873)に上野の山は、蘭医ボードウィン博士の奏上により東京府公園として整備される事になりました。その後、大正13年(1924)には、管轄する宮内省から東京市に払い下げられて、上野恩賜公園と名付けられました。上野桜木や谷中は、現在では、上野公園内の東京藝術大学、東京国立博物館、寛永寺の裏手に位置した寺町であり、文教地区ともなっています。(台東区上野桜木、谷中地区)


上野桜木・谷中を歩く

谷中は、上野の山へと続く坂道が数多くある町です。

 台東区の北西に位置する上野桜木、谷中界隈は山手台地の東端にあり、江戸時代から徳川家の菩提寺でもあった東叡山寛永寺の敷地でした。旧上野桜木町は、寛永寺の寺域と上野台の東北麓(現根岸一丁目界隈)に二分されていました。前者は上野花園町から独立した地域で、後者は谷中村の飛地でした。上野桜木町の名前は、桜の木が多くあったことに由来しています。この界隈には寛永寺の子院も多く、また寛永寺(上野桜木)には徳川家の墓所として六人の将軍霊廟や谷中霊園があり、地名の通り桜並木を初めとして緑陰が多く残る閑寂な寺町です。寺院や点在する商店にも、江戸、明治、大正、昭和のそれぞれの時代の面影が偲(しの)ばれます。上野桜木や谷中は、浅草などの江戸情緒に比して、むしろ大正、昭和初期の面影があり、商店にもいわゆる大正ロマンのモダニズムの名残りが感じられます。これを懐かしみ、町並みを愛(め)でながら懐旧に浸る散策の人々も多く見掛けます。(下段に続く)

夕日に染まる谷中の桜の古木

谷中の町中のあちらこちらに見られる桜の巨木

谷中、上野桜木では、古き良き時代の面影を残した木造家屋も多く見受けられます。

老舗のせんべい屋さん(谷中1丁目)

大正・昭和初期の面影を残してリニューアルされたカフェ(谷中6丁目)

 谷中、上野桜木は、文京区根津から根岸1丁目、そして浅草へと縦断する言問(こととい)通り、そして文京区千駄木の団子(だんご)坂下から上野桜木と続く三崎坂により二分されています。この界隈から文京区へと続く界隈には、江戸、そして明治時代から多くの文人や芸術家が暮らしていました。彼らも、この通りを上り下りしたのでしょう。
 谷中7丁目には、東京美術学校(現東京藝術大学)を卒業し教鞭も執っていた彫塑家朝倉文夫のアトリエがあり、現在では朝倉彫塑館として残されています。同じく、彫刻家の平櫛田中(ひらぐし でんちゅう)は岡倉天心に師事し、上野桜木に横山大観等の支援を得てアトリエ(現平櫛田中邸)を構えました。田中は、長年この地に住まいして「でんちゅう先生」と呼ばれ、親しまれていました。また田中は天心を敬愛し、東京美術学校に登校した際には、校内中央(現美術学部)の六角堂に設置された田中自作の天心像に敬礼をしたとも言われています。谷中5丁目には、その天心が明治31年(1898)から明治39年(1906)に茨城県五浦にその居を移すまで住まいし、日本美術院を開きました。現在では、その旧居跡、そして旧前期日本美術院開設の地には、昭和41年(1966)に岡倉天心記念公園として六角堂が設けられ、田中作の天心の半身像が置かれています。
 また谷中7丁目には「五重塔」などを著した明治時代の文豪幸田露伴の旧宅跡があります。小説「五重塔」のモデルとなったのは、谷中天王寺の五重塔と言われますが、昭和32年(1957)に放火により焼失し、現在では五重塔跡として礎石が残されています。谷中霊園には、谷中に居を構えた朝倉文夫を初めとして、横山大観、日本画家の鏑木清方、六代目市川団蔵を初めとした歌舞伎役者、文学者の上田敏、小説家の獅子文六、円地文子、歌人の佐佐木信綱、音楽家の宮城道雄、力士の柏戸剛、新派の川上音二郎などの多くの文人や名士、芸術家が祀られています。谷中、上野桜木、文京区千駄木、根津、そして池之端は、東京美術学校、東京音楽学校の時代から多くの芸術家が住み、往来する町でした。


旧平櫛田中邸
現在、同旧居は平櫛田中の出身地の岡山県井原市所有となっており、非公開ですが、芸術振興のために東京藝術大学主催の展覧会や地域の展示会にも用いられています。

渋江抽斎墓
森鴎外が、医師としても敬愛し、小説「渋江抽斎」として著した江戸時代末期の医師で書誌学者渋江抽斎は、感応寺(谷中6丁目)に祀られています。[写真をクリックし、詳細を見ることができます。渋江抽斎については、「台東区の史跡・名所案内」の谷中の項を参照下さい。]

愛染堂・愛染かつらゆかりの地
自性院(谷中6丁目)は神田において創建され、後に現在の地に移った古寺。江戸時代中期頃から、同寺の愛染明王像に因み、愛染寺とも呼ばれました。文豪川口松太郎の名作「愛染かつら」は、愛染明王像と本堂前の桂の古木を題材とした作品といわれています。[写真をクリックし、詳細を見ることができます。愛染堂の詳細は、「台東区の史跡・名所案内」の谷中の項を参照下さい。(愛染明王像は、非公開です。)]
谷中、桜木界隈の家屋の軒先には、様々な緑が配され見事な彩りを成しています。

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