台東区文化ガイドブック 文化探訪
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寛永寺の子院を歩く寒松院・護国寺に聞く

掲載:2016年10月8日

上野の山は、江戸時代以来の信仰の地です。


上野公園内の五重塔を望む。

 上野の山は、徳川家康・秀忠・家光の三代の将軍の帰依を受けた慈眼大師天海大僧正により寛永2年(1625)に寛永寺が創建されて以来、篤い信仰の地となりました。天海僧正は、徳川幕府そして江戸市民の平安を祈願して江戸城の鬼門(北東の方角)としてあった上野の山に寛永寺を建立し、比叡山延暦寺にならって、東叡山寛永寺と号しました。最盛期には寛永寺の境内は現在の上野公園を中心にして約30万5千坪に至っていました。現在の上野公園の中心ともなっている噴水広場には 間口45m、 奥行42m、高さ32mという壮大な根本中堂が建ち、現在の国立博物館が建つ地には本坊がありました。また寛永寺は本坊の他、大名の寄進により建立された三十六坊の子院から成る壮大な規模の寺領を誇っていました。
 幕末の上野の山を戦地とした幕府を守る彰義隊と官軍による戊辰戦争(上野戦争)では、伽藍の多くが焼失してしまいました。そして江戸後期、その後の明治政府は、それまでの神仏を共に祀る神仏習合から神仏分離、廃仏毀釈へと向い、多くの寺が廃されました。慶応4年(1868)に布告された太政官布告(神仏分離令)も契機として廃仏毀釈運動が興り、仏像や仏具等が破壊され、仏事も禁止されました。寛永寺も境内地は没収され壊滅的な打撃を受けました。けれども明治12年(1879)に寛永寺の復興が認められ、現在の地(旧子院大慈院跡)に川越喜多院より移築された本地堂を根本中堂として再建されました。明治18年(1885)には輪王寺門跡の門室号も復興され、天台宗の高僧が輪王寺門跡門主として寛永寺に迎えられました。
 寛永寺は、江戸時代から永らく徳川将軍家の祈祷所、菩提寺として徳川将軍家歴代の将軍の内、6人が祀られていますが、第二次大戦後は霊園も新たに造成されました。寛永寺の現在の境内地は約3万坪、根本中堂、本寺を初めとして、開山堂、辯天堂、パゴダ、徳川霊廟、清水観音堂、そして子院十九坊から成っています。戊辰戦争で焼失を免れた清水観音堂、輪王寺門跡御本坊表門、徳川将軍霊廟勅額門等は重要文化財に指定され、江戸の往時の趣きを残しています。(下段に続く)

花見で賑わう上野公園


寛永寺根本中堂
 
 寛永寺には、根本中堂、開山堂(両大師)、清水観音堂(国指定重要文化財)、不忍池辯天堂、德川歴代将軍御霊廟(国指定重要文化財)、旧本坊表門、上野大仏(パゴダ)、時鐘堂(時の鐘)、天海僧正毛髪塔、旧寛永寺五重塔、浅間山観音堂(群馬県吾妻郡)等の史跡や伽藍があり、真如院、寒松院、林光院、吉祥院、泉龍院、修禪院、現龍院、見明院、福聚院、本覺院、元光院、東漸院、覺成院、春性院、等覺院、養壽院、津梁院、圓珠院、護國院の19の子院があります。
 
東叡山寛永寺の成り立ちについては、「文化探訪 歴史を歩く・寛永寺を訪ねる」をご覧下さい。



上野恩賜公園は、今日では市民の憩いの地となっていて、桜が咲く季節には多くの花見客が訪れます。また明治時代から博物館や美術館、そして動物園等が設けられ、文化の中心の地となっています。(台東区上野公園)