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浅草寺に詣でる

掲載:2014年3月12日

金龍山浅草寺全景


浅草寺本堂(観音堂)


 伊賀上野(現三重県伊賀市)に生まれ、江戸日本橋、そして深川等に寓した江戸時代の俳人松尾芭蕉(1644-1694)は、上野の東叡山寛永寺、そして金龍山浅草寺の時の鐘を喩えて「花の雲 鐘は上野か 浅草か」と詠じています。深川に草庵「泊船堂」を編んでいた芭蕉は、隅田川界隈の満開の桜を愛でながら、浅草寺の鐘を聞いていたのでしょうか。また芭蕉の没後、芭蕉を偲んで浅草寺境内には「くわんをんの いらかを見やりつ 花の雲」の句碑が建てられました。(現在は、弁天堂が建つ弁天山の時の鐘の鐘楼脇にあります。)
 金龍山浅草寺では、大化元年(645)に勝海上人(しょうかいしょうにん)が、夢のお告げによりご本尊を秘仏と定め、以来、今日までご本尊は公開されていません。東京湾に面した浅草は参拝の信徒が増すにつれて発展し、平安初期には浅草寺中興開山・比叡山第三世天台座主の慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん、794-864)さまが来山し、お前立本尊を謹刻しました。鎌倉時代には将軍の篤い帰依を受け、次第に著名な武将の信仰や庇護も受けるようになり、その規模を拡げていきました。江戸時代初頭には、将軍となった徳川家康(1543-1616)により幕府の祈願所と定められ、その威容はさらに高まり、浅草寺、そして浅草は、江戸文化の中心地として繁栄していきました。江戸、そして都内最古の寺院である浅草寺は「浅草観音(あさくかんのん)」と親しまれ、年間のべ3000万人余の参詣者が訪れる民衆信仰の中心地となっています。(下段に続く)





浅草寺本堂(観音堂)


 鎌倉・室町時代の中世には、現在の浅草界隈は東京湾に面した地域でした。当時は湾に面し隅田川に続いていた事から、全国各地から船や物資が集散し、多くの人が出入りする要の地域として拓けていたようです。
 鎌倉時代に編纂された『吾妻鏡』には、当時、浅草寺に多くの僧侶が在職していたという記述があります。また境内からは中世期の瓦が数多く発掘されている事から、当時から瓦葺きの寺院であった事が分かります。当時の瓦は今日の瓦よりも重く、瓦屋根を支えるには榧(かや)の木の板等で強固な屋根を葺かなければならない事から、浅草寺は古くから壮大な寺院であったと思われます。けれども、浅草寺はこれまで戦火や災害により度々焼失しています。安永元年(1772)の江戸の大火では境内の伝法院が焼失し、貴重な古文書等が失われ、慶応元年(1865)には、浅草の火災により雷門や山内の支院14ヶ院を焼失しました。また昭和20年(1945)の戦災により、徳川三代将軍家光が建立し国宝となっていた旧本堂、そして仁王門、五重塔、輪蔵等が焼失しました。現在の本堂は、昭和33年(1958)に飛鳥・奈良時代の多くの文化財建築の修理保存工事も手掛けた建築家大岡實氏(1900-87)の設計により火災にも強い鉄筋コンクリート、本瓦葺きにより飛鳥様式をも採り入れた壮大な形に改築されています。そして平成本堂大営繕として、平成21年(2009)2月から約2年余を要して、外壁の工事や屋根瓦の葺き替えが行われました。平成22年(2010)11月に落成した今回の営繕により、震災にも耐えうる軽量化のために本瓦はチタン製瓦に葺き替えられる等、その景観は美しく蘇りました。





浅草寺本堂外陣天井には、中央に川端龍子画「龍之図」(1956)、左右に堂本印象画「天人之図」(1957)が描かれています。


浅草寺影向堂(ようごうどう)
 観音さまの説法に奉じた仏さまは影向衆(ようごうしゅう)と呼び、これらの仏さまを祀ったお堂。現在の影向堂は、平成6年(1994)に鉄筋コンクリート寄棟造り、錣(しころ)屋根本瓦葺きとして建立されています。内陣須弥壇(しゅみだん)中央に聖観世音菩薩、その左右に生れ年(干支)ごとの守り本尊八躰が祀られています。


浅草寺淡島堂(あわしまどう)
 浅草寺境内には、東京浅草の象徴ともなっている雷門、さらには宝蔵門、五重塔、影向堂、淡島堂、鎮護堂、弁天堂、二天門、薬師堂、銭塚地蔵、そして伝法院等の歴史と共にあった諸堂があります。また、隅田川に架かる駒形橋の脇には、浅草寺のご本尊の観音さまがご示現ののち上陸した浅草寺の草創ゆかりの地に建立された駒形堂があり、馬頭観音さまが祀られています。




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金龍山浅草寺の起源は、推古天皇36年(628)3月18日、漁師の檜前浜成(ひのくまはまなり)、竹成(たけなり)兄弟が、隅田川で網に掛かった像を持ち帰り、それを有力者にあたる土師中知(はじのなかとも)に見せたところ、その像が有り難い聖観音(しょうかんのん)像である事が分かり、堂を建てて安置し、礼拝供養をした事に由来しています。以来、浅草寺は幾度となく焼失と再建を繰り返し、昭和20年(1945)の東京大空襲では、そのほとんどが焼失しましたが、伝法院、時の鐘、二天門、浅草神社等は戦災を免れました。(台東区浅草2丁目3-1)