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国立西洋美術館に想う

掲載:2011年12月12日


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恩賜上野動物園は、明治15年(1882)に当時の農商務省博物館局の所管として博物館(現東京国立博物館)と共に同局天産課付属の施設として開園した日本最古の動物園です。博物館は、開園の4年後の明治19年(1886)には宮内省所管となり、「帝国博物館」と称され、明治23年(1900)には「帝室博物館」と変更されましたが、動物園は天産部所管として永らく正式名称は定められる事なく、通称「上野動物園」として存続していました。大正13年(1924)の皇太子(昭和天皇)ご成婚を記念して、東京市(現東京都)に下賜され、「上野恩賜公園動物園」と呼ばれ、昭和22年(1947)には、現在の名称「東京都恩賜上野動物園」と改められました。平成18年(2006)の指定管理者制度の導入に伴い、多摩動物公園、葛西臨海水族園、井の頭自然文化園と共に「公益財団法人東京動物園協会」の管理となり、現在に至っています。(台東区上野公園9-83)

上野動物園西園のワオキツネザル

 上野動物園の敷地には、江戸時代には伊勢津藩主藤堂家、弘前藩主津軽家、越後村上藩主堀家の三大名の屋敷がありました。上野の呼称は、藤堂家の所領であった伊勢にある伊賀上野に由来するとも言われていますが、一方徳川家康による江戸開府前から上野の地名はあったとも言われます。藤堂和泉守高虎は、徳川家康による江戸開府の際にこの地を拝領して中屋敷としましたが、寛永元年(1624)、天海僧正により東叡山寛永寺が建立される事になった際、この地を直ちに幕府に返上し、さらに上野山内に東照宮を建立して献上し、その別当寺として寒松院を建てて寛永寺の宿坊として寄進したと言われます。
 藤堂家は寒松院を菩提寺としたため、現在でも園内には藤堂家の墓碑が残っています。寒松院には、徳川二代将軍秀忠、三代将軍家光が東照宮参詣の折に立ち寄ったとも言われています。閑々亭(かんかんてい)は、高虎が家光をもてなすため建造した茶室と伝えられ、家光が散策の際に休息したといわれる「家光の腰掛け石」も残されています。この付近は、明治15年(1882)の上野動物園開園時から明治20年(1887)までは、当時の正門の前庭にあたり、閑々亭は一般客の休憩用にも利用されていました。
(下段に続く)

閑々亭
閑々亭(かんかんてい)の名称は、三代将軍家光を名付けたとも言われています。[写真をクリックし、詳細を見ることができます。]

家光の腰掛け石
家光が東照宮参拝の折に立ち寄り、邸内の散策の際に腰掛けて休息したと伝えられています。

旧正門の前には、明治15年(1882)当時の風景が掲示されています。開園当時のにぎわいが感じられます。(明治29年(1896)発行の『風俗画報』より)[写真をクリックし、詳細を見ることができます。]


寛永寺五重塔
園内に建つ寛永寺の五重塔は、寛永8年(1631)に佐倉藩主土井利勝の寄進により建立されました。その後の寛永16年(1639)に焼失し、再建されました。高さ33m、一層には薬師、阿弥陀、弥勒、釈迦の四尊が安置されています。昭和33年(1958)に東京都に寄贈されました。(国指定重要文化財)

閑々橋
クロトキ舎とツル舎から下る坂道の途中にふたつの橋があります。そのうちのひとつはツル舎からの小川に掛かる橋、千川上水に掛かっていましたが、千川上水が暗渠になったため、実際には流れがありません。橋の傍らには「閑々橋」の碑が建っています。


 「動物園」の名称は、慶応2年(1866)に発刊された福沢諭吉著『西洋事情』において初めて使われました。慶応3年(1867)のパリ万国博覧会に派遣された日本代表団の一員でもあった物産学者田中芳男は、パリの国立自然史博物館付属のジャルダン・デ・プラントを初めとする施設を見学し、日本にもこのような施設が必要であると認識しました。ジャルダン・デ・プラントはその名の通り、植物園であり、付属の「メナジュリー」と呼ばれる動物飼育場は動物園に相当する施設でした。
 慶応元年(1865)、町田久成は森有礼等と英国に渡り、ロンドンのサウスケンジントンの自然科学博物館に感銘を受けました。その後に町田は文部大丞を経て博覧会事務局御用掛になり、部下の御用掛田中芳男と共に、明治6年(1873)に「大博物館創設の建議」を提出しました。この大博物館の構想は、動物園、植物園、図書館が併設されたもので、上野公園内を想定していました。
 明治4年(1871)、明治政府は明治6年(1873)にウィーンで開催予定の万国博覧会に出品するため、参議大隈重信を総裁とした博覧会事務局を設置し、町田は田中と共に
国内の様々な物産を集め、これらの一般公開を目的として内山下町(現千代田区内幸町)に博物館を開館しました。同館に付属して動物飼育場を設け、30種77点の動物を飼育しました。町田は、明治8年(1875)には内務卿大久保利通の下で初代博物館局長となり、博物館建設に尽力しました。(下段に続く)

初代園長 石川千代松

明治40年(1907)頃の正門 [写真をクリックし、詳細を見ることができます。]

 明治10年(1877)、上野公園で第一回内国勧業博覧会が開催されました。その跡地に内山下町にあった博物館は移転し、隣接した寒松院ヶ原に付属の動物園が設けられ、明治15年(1882)に博物館と共に開園しました。内山下町の跡地には鹿鳴館が建設され、明治16年(1882)に開館しています。当時の動物園の正門は、閑々亭の坂を下った付近、現在インドライオンを公開している「トラの森」の前あたりにありました。敷地は、ツル舎、事務所、バードハウスで囲まれた現在の東園の区域で、現在の14.3ヘクタールの10分の1程度であったようです。
 明治19年(1886)、博物館と付属の動物園は宮内庁所管になり、博物局天産部所属になりました。その初代天産部長を務めた田中が、初代の動物園園長に相応しいのでしょうが、後の明治22年(1889)に東京帝国大学理科大学助教授であった石川千代松が天産部長兼動物園監督として任命された事から、初代園長となっています。石川は、琵琶湖産のコアユを多摩川に放流してオオアユに育てるなど、優れた功績を残した動物学者でした。石川は、オーストラリアやドイツなどの動物園と積極的に動物交換を行い、動物園の飼育展示動物の充実を図りました。
 大正13年(1924)、動物園は宮内庁から東京市(現東京都)に下賜され、「上野恩賜公園動物園」と永らく呼ばれていました。現在の「東京都恩賜上野動物園」の正式名称となったのは、開園から65年後の事でした。
[以後の「帝国博物館」(現東京国立博物館の成り立ちについては、「東京国立博物館に憩う」を参照下さい。]


現在では東園に加えて不忍池畔に西園が設けられ、動物も500種余りが飼育されています。東園には、パンダ舎を初めとしてクマたちの丘、猛禽舎、ゴリラ・トラの住む森、サル山、ゾウのすむ森などのエリアがあります。西園には、子ども動物園、アイアイのすむ森、アフリカの動物、両生爬虫類舘などのエリアがあります。[写真をクリックし、詳細を見ることができます。]


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